2010年11月17日水曜日
11月13日 258日目 ポーランド 逃れることの出来ない過ち
ここ
ポーランドに来た
一番の理由
それは
「負の遺産」として
世界遺産に登録されている
「アウシュビッツ収容所」に行く事だった
大学では
教育学部社会科に属しているため
戦争のことは
度々扱ってきた
その内興味を持ち
いつか行ってみたいところの一つになっていた
午前9:30に出発し
一時間後
アウシュビッツに到着
インフォメーションを通り
入り口に着く
その門には
「働けば自由になる」の文字が
なんという皮肉だろう
ここから何万人もの人達が
労働に行き
死ぬまではたらかせられたんだ
その門をくぐり
中に入る
中全体にある
ブロックは
一つ一つテーマのある
博物館になっている
まず第四ブロック
一回に入ると
世界各地から運ばれてきた
ユダヤ人の写真と
運ばれてきた場所の地図が描かれていた
多くの人が
東ヨーロッパに移住されるものだと思っていた
しかし
そこに待っていたのは
死であった
労働できるものと出来ないものに分けられ
出来るアウシュビッツに収容され
それ以外はそのままガス室に送られる…
そのユダヤ人が到着した風景が
写真で見れる
そして
選択をしているナチスの兵士
二階に上ると
ガス室に送られている人達の模型が置かれていた
みんなシャワーを浴びると騙され
服を脱いでいる
ガス室には
水の出ないシャワーが付いている
その横天井の穴から
毒ガスチクロンBを投入した
実際のチクロンBは
近くのガラスケースの中に
残ったのが展示されていた
そして大量の空き缶も…
約1500人を殺すのに
6から7キロのチクロンBが必要らしい
チクロンBが投入されると
その中にいた人間は
15分から20分間に窒息した
その間もがき苦しんだんだろう
ナチスのやり方に反吐が出る
そして死体から金目のもを取り上げ
髪を切り
国へと流した
その後死体は
焼かれるか
埋められるかどちらかだ
写真の一つに
収容者が隠し撮りした写真が残っていた
ガス室に送り込まれ
人形のように積み上げられた死体の写真…
どうしたらこんな事ができるんだろう
次の部屋に移動しようとしたら
撮影禁止の看板があった
(何の部屋だろう…?)
恐る恐る入ってみた
空気がとても重い…
ガラス張りの奥には
大量の髪の毛…
本物のようだ
信じられない量だ
この収容所で殺された人々は
髪を切られた
そして
その髪の毛は
毛布やカーペットになり
ドイツ国民に使われていた
アウシュビッツ解放後
ソ連軍は
ここの倉庫で七トンもの髪の毛を見つけたらしい
7トン…
全く想像が出来ない…
隣の部屋に入ると
大量の靴が
両脇のガラス張りの部屋いっぱいにおいてあった
何万足も…
オナガがふと
「この靴の数だけの人が死んでいるんだよね」
と言った
そういわれたときに
死んだ人達の数に現実味が帯びてきて
ぞっとした…
そして
この靴の比じゃない何倍もの人を…
次のブロックに行った
そこには
収容者から奪った
ありとあらゆるものが置かれていた
トランク
メガネ
ブラシ
義足・義手
体の不自由な人にも容赦はしなかったんだろう
そして
死にに行くとわかっていたら絶対に持っていかないだろう
台所用品を始めとする
生活用品
騙されてきたことが容易に分かる
そして
子どもが遊ぼうとしていただろう人形
何のためにここまで…
そして
次のブロックへ行くと
あたり一面に
収容者の写真が
もうすでにこの世にいない人達だろう
みんなひどい格好をさせられ
洗濯もさせてもらえず
伝染病がはやり
死ぬ人も多かった
食事もろくにたらしてもらえず
痩せてこけていくばかりの人達
毎日配られていくご飯は
腐ったやさいとスープだったと言う
ここのブロックでは
収容者が書いたと思われる絵が多い
おそらく
この悲惨な状況を少しでも記録しておくためにだろう
このような人達の努力により
今こうして
見ることが出来ている
本当に感謝だ
その絵の中に
よく
労働している風景がかかれている
死刑執行とガス室につぎ
一番効率のよい虐殺方法は労働であったらしい…
人間の許容範囲を超えた
労働
こればっかりは
今日の日本でもある問題だ
そして
最後の部屋には
痩せこけた子ども達の写真が飾ってあった
子どもは
大人と同じように
重労働を強いられ
政治犯のファイルに入れられ
そして
双子のようなケースの子どもには
犯罪的な医療の実験台として使われていたらしい…
次のブロックに移動した
ここでは
収容された人達が
どのような暮らしを
強いられていたかが分かるようになっている
来たとき始めは
布団は藁であった
そして
時間がたつにつれてマットレスが配給され
そして
3段ベッドへと
移動していく
ナチスの協力した者だけが
自分部屋を持てるようになっていた
次のブロックへ移動した
10ブロックと
11ブロックの間には
死の壁と呼ばれる
数千人もの人が
銃殺された壁がある
多くの収容者が
この前の壁に立たされ
殺された
10ブロックのほうには
刑の執行が見えないように
木の板が打ち付けられている
ここにいた収容者達は
処刑執行時の音を
どのような気持ちで聞いていたんだろう
そして
11ブロックの中に入った
このブロックは
「死のブロック」と呼ばれ
ここに収容された人間は
いつか外へ出て
死の壁の前で処刑される
このブロックには
地下があり
その地下が
懲罰房になっていて
ここに入れられ
タダ死を待たなければいけなかった
奥の部屋では
空気が薄く
窒息する人も
いたらしい…
この牢屋には
違う収容者の身代わりに死んだ
ポーランド人の神父さんもここで最後を迎えたらしい
ここは
立ち牢
座ることすら許されなかった
上の階に行くと
収容者が反対運動を起こしていたときの
記録が残っていた
知らなかった
てっきりアウシュビッツの中にいる間は
正しにおびえるだけと思ってたけど
やっぱり抵抗もあったんだ
中には
暗号や
ばれないように手紙をくるむようなものまであった
それが意味があったどうかは分からないけど…
ブロックを出て
収容者が
毎朝点呼を取られていた広場があった
みんな
点呼が終わるまで
ここで
両手を手を挙げ続けなきゃいけなかった
そして
毎朝見せしめのため
何人か絞殺された…
その広場を通り
ガス室へ向かった
ここでは何人の人が殺されたのだろう…
中には
まだ焼却炉が残っていた
アウシュビッツの門をくぐると
出口はこの焼却炉の煙突だと言われていた
何人の人が
それを知ってここに連れてこられたのだろうか
死ぬために生きる
辛すぎる
バスに乗り
三km離れている
アウシュビッツ第二号 ビルケナウに行ってきた
よく写真で見るアウシュビッツの風景は
こっちの方だった
真ん中の引き込み線路は
物を運ぶ
もしくは死体を運んでいた
さっき見てきたものに比べると
格段にでかい
ここでは十万人の人が収容された
今では
当時のまま残っているのは少ない
ナチスがその犯罪の痕跡を
消そうと破壊や燃やしたりしたそうだ
悪いことは隠せない
いつか
公になるもんだ
ここの生活環境は劣悪で
水が無く
鼠の大発生が起こり
殆どの虐殺設備をここに配置した
ガス室と焼却炉は
全部で5個ある
すべて破壊されているが
中は
残っているものもあった
レンガで作られた
収容者が暮らしていた建物
木造のものもある
寒い日には
耐え切れないだろう
1番奥には
ナチスの犠牲者国際記念碑があった
ここにあるのも何か変な感じがした
更に置くにいくと
焼却炉で焼ききれなかった死体が
山積みにされいた場所
そして
その更に奥には
ソ連軍捕虜の墓があった
ここでは
ユダヤ人の他に
ソ連軍の捕虜も収容されていた
そして
ぐるッと周り入口へと帰ってきた
今日はとっても綺麗な空だった
ここに収容されていた人達は
こんな日はどんな思いだったのだろう
4時ぐらいに乗ったバスは
途中でエンジントラブルにより止まり
片道1時間の所
3時間かかってしまった
宿に着いたときには
ぐったりと疲れてしまった…
歩き回ったせいもあるけど
何か見てはいけないものを見たという
それでも
もう変る事はない歴史的事実の
目撃者の一人になったと言うことに変りにないと思う
もちろん
実際に見たわけではい
でも
もう
見てはいけないものなんだと
こんなことは
もう二度と起きちゃいけないんだって
そう思った
キレイ言かもしれないけど
そう思った
2010年11月16日火曜日
11月12日 257日目 チェコ→ポーランド ローカル
0:24発
チェコとポーランドの国境まで行く
ローカル路線に乗り込んだ
本当は
国際列車や
国際バスも
出ているけれど
ローカル路線を乗りついで行ったほうが
安いという情報を手に入れたので
その方法を使うことに
ローカル路線だけあって
車両数は少ないけど
中の座席などは
普通のバスと変らないぐらい
快適だ
全部の席を使って
ゴロンと鳴れるかなって思ったけど
俺のほうにだけ
人が座った
なぜ 笑
そんあ状態で
国境の町
チェスキー・テシンに着いたのが
5:30ぐらい
そこから
ポーランドとの国境を歩いて越えられると聞いていたので
歩いて行くことに
てくてく
てくてく
あるいて
橋を渡り
川を越えて
また
トコトコ
トコトコ
歩いていると
何かスーパーの看板らしいものが出てきた
そして
その値段表示を見てみると
ポーランドズロチ(ポーランドのお金の単位)表示になってた!!
いつの間にか国境を越えていたみたい 笑
そこから
また
プラプラ
プラプラ
歩きながら
分かれ道に翻弄され
ガソリンスタンドがあったので
バスターミナルの位置を聞いてみたら
直ぐ目の前にありました
そこから
クラクフに向かうバスまでは
2時間ぐらいあったので
とりあえずターミナルで
仮眠を取り
謎の
バス会社のおばちゃんの
情報に翻弄されながら
なんとか
クラクフ行きのバスに乗り込みました
そこから
約4時間
とんでもない
渋滞に巻き込まれながらも
ちゃんと
クラクフ到着
この街も
世界遺産に登録されていて
ワルシャワは東京
クラクフは京都
と例えられる
古都でございます
街を周ってみましたが
意外に都会でした
城があったけど
結構微妙でした
でも
そこから見た
夕日がとっても綺麗でした
明日
ヨーロッパに来た理由の一つ
あの場所に行ってきたいと
思います
11月11日 256日目 チェコ 後片付け
11月10日 255日目 チェコ お酒
今日も
ルイ子さんを仲間に入れて
プラハを周った
この街は
本当に
歩いているだけで
とっても楽しい
けども
ハンガリーでもそうだったように
日がとっても短くて
直ぐに日が落ちてきました
今日は
早く帰って
酒を飲もうという話になりました
ヨーロッパでは
酒の値段が
とりあえず
むちゃくちゃ安いです
ブルガリアでは
ペットボトルでビールが売っており
2リットル約120円でした
ルーマニアでは
ワインが150円でした
ハンガリーも同じく
ワインが150円でシた
オーストリアちょっぴり高かったけど
それでもビールは100円ぐらいです
ここチェコは
ビールの有名な産地
ここでは
一瓶約20円
水より安いです
まぁ
実は探せば
高いビールなんて幾らでもあるんでけどね 笑
そんな夜は
ビール片手に
しょーもない話をずっとしてました
まるで大学の飲み会みたいに 笑
明日の夜は
ポーランドに向かいます
ルイ子さんを仲間に入れて
プラハを周った
この街は
本当に
歩いているだけで
とっても楽しい
けども
ハンガリーでもそうだったように
日がとっても短くて
直ぐに日が落ちてきました
今日は
早く帰って
酒を飲もうという話になりました
ヨーロッパでは
酒の値段が
とりあえず
むちゃくちゃ安いです
ブルガリアでは
ペットボトルでビールが売っており
2リットル約120円でした
ルーマニアでは
ワインが150円でした
ハンガリーも同じく
ワインが150円でシた
オーストリアちょっぴり高かったけど
それでもビールは100円ぐらいです
ここチェコは
ビールの有名な産地
ここでは
一瓶約20円
水より安いです
まぁ
実は探せば
高いビールなんて幾らでもあるんでけどね 笑
そんな夜は
ビール片手に
しょーもない話をずっとしてました
まるで大学の飲み会みたいに 笑
明日の夜は
ポーランドに向かいます
11月9日 254日目 チェコ トイ・ストーリー
プラハで泊った宿には
ルイ子さんという
一人だけ日本人がいました
その人が相当あほで
楽しかったので
一緒に街を周る事にしました
プラハ城では
12時になると
盛大に
見張りの交換を
行います
それを見に行きました
彼らは
どんなに近づいても
ぴくりとも動きません
まるで人形のようです
次に行ったのは
一番大きな広場
そこは
まさに
おもちゃ箱の中
綺麗な教会があって
時計台があって
並木道があってと
しかも時計は
からくり時計になっていて
一時間毎に
仕掛けが動き出します
そして
時計台の上では
ラッパが鳴り響きます
なんて楽しい街なのでしょう
そして
ちょっと
遠回りして
綺麗な街並を見ながら
丘に登り
謎の振り子を横目に
辿り着いたのは
大聖堂
とっても大きな建物と
中のステンドグラスがとっても綺麗でした
そして
一度宿に帰り
昼飯食った後に
また
夜景が綺麗そうだから
大聖堂に行ってきました
夜も
最高に綺麗でした
夜の道は
心弾み
みんなで
踊りながら帰りました
まるで
おもちゃ箱に迷い込んだような
この街
とっても楽しい
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